WIKIレンタル 大衆演劇探訪記

旅情にあふれた旅の途中の旅芝居 「矢野温泉あやめ」

【広島大衆演劇場めぐり4日間一人旅】 3日目つづき~4日目
 旅情にあふれた旅の途中の旅芝居 「矢野温泉あやめ」


17:04甲山営業所発の高速バス、ピースライナーに乗って矢野温泉へ向かう。

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行く手の道路に白い煙が。

道路脇の畑で草木を燃やしているらしい。
畑の間を縫うように進んでゆくバスから、野火の白い煙はいくつも見えた。

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17:25矢野温泉バス停に到着。
バスの料金は後払い。料金を訊ねると、運転手さんは何やら小さい紙を取り出した。路線や料金が書いてある携帯用のバス案内だ。「いくらって書いてありますか?」と老眼らしき運転手さんは小さい紙の小さい文字を私に示した。


広島観光ナビWEBサイトに矢野温泉について次のようにかかれている。「約800年前鎌倉時代建仁の頃、諸国巡錫の豊成法師によって発見された温泉で、昭和47年国民保養温泉地に指定されました。広島県内では数少ない温泉のひとつとして知られています」
おそらくかつてはこの地にいくつかの温泉宿があったのだろう。しかし現在は矢野温泉あやめが矢野温泉で唯一の施設になってしまったようだ。

矢野温泉あやめはバス停のすぐ近くだ。行く前に矢野温泉一帯がどのような土地なのかを確かめに周辺を散策してみる。

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高台から。
山の中に積木を置いたような矢野温泉あやめの建物が見える。

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別の地点から。
山と畑に囲まれた場所に矢野温泉あやめを含むいくつかの建物がかある。
近くにコンビニや商店はない。どころか民家もほとんどない。

「秘境駅」という言葉がある。
まわりに民家がなく、乗降客も少なく、なぜそこにあるのかと疑問を抱かざるを得ないような場所にある鉄道駅がそうよばれている。
私は、秘境駅に興味を持っていたこともあり、公共交通機関でたどり着くことが困難でまわりに繁華街どころか宅地もほとんどないような場所にありながらも現役で経営が続いている大衆演劇場のことを「秘境劇場」と自分の中で分類するようになった。
私が秘境劇場の横綱だとみていた栃木県の「上延生ヘルスセンター」は2014年にひっそりとなくなってしまった。同じ栃木県の「鬼東沼レジャーセンター」も大関級であったが東日本大震災後に復活することはなかった。秘境劇場は日本から存在を消しつつある。
矢野温泉あやめは秘境劇場の西の横綱といったところ。ただし、大衆演劇目的でないお客さんも多いとしたら純正な秘境「劇場」ではない。

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矢野温泉あやめが大きい旅館であることはこの立派な入口でわかる。
入口脇にたくさんの水槽が並んでいている。「水槽の魚 お造りします」と書いてある。魚の他、穴子や海老や蟹もいる。

大きな青い四角い容器が玄関近くに置いてあり、30cmくらいの亀が入っていた。「亀を飼ってみませんか」という貼紙が添えてある。

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毒蛇注意の貼紙。これだけの大自然の中にあれば蛇も出るだろう。
「みなさん各自で注意しましょう」という表現にのどかさを感じる。

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ロビー
玄関で靴を脱いで靴箱に入れる。靴箱の鍵はフロントに預けるのではなく自分で保管。

フロントでチェックイン。
名前を告げるとフロントの方は無事着いたかというようなほっとした表情をした。
事前にピースライナーで行くと伝えてあったため、バスの到着時間が過ぎてもなかなか来ないので心配していたみたいだ。申し訳ないことをしてしまった。

かなりお歳を召した女性の定員さんが部屋に案内してくれた。すいぶん長くここにお勤めなんだろうな、などと考えていたら、「ようやくきなさったね」というようなことを方言交じりに話しかけられた。この方も僕の到着を心配していたみたい。

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矢野温泉あやめの宿泊部屋

夕食は1階の食事処にて18時から。

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夕食は予想を超える品数の多さ。ビールと冷酒とともにゆっくりいただく。

動くのもつらいほど満腹になり、部屋に戻ってお風呂へ。
疲れていたのか、お風呂から上がってすぐ寝てしまった。

旅の最終日、4日目の朝。

朝食は8時だがずいぶん早く起きてしまった。
フロントの方に、この辺でどこか見物するところないですかと訊ねると、まだ若い従業員さんは隣の従業員と顔を合わせて首をかしげながら「ガンカイかなあ・・」とつぶやいた。

従業員さんに教えられた道を進みながら朝の散策。

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空き地に簡単な木の看板が立っていて、大衆演劇のポスターが貼ってある。
昔、旅役者が田舎の公演場所をよくまわっていた時代、これに似た光景があちあこちらにあったのだろうなあ。

矢野温泉公園四季の里とを抜けてその突き当りに、国指定天然記念物「矢野の岩海」があった。

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山裾に巨岩が累々と積み重なっている。
浸食作用で山の上から転がってきた岩石がこの場所に集中的に溜まったものらしい。巨岩の隙間の空洞が蝙蝠の巣になっていて土地の人はこの場所を「こうもり岩」と呼んでいたそうだ。

宿に戻り朝食をいただく。

大衆演劇昼の部まではまだ時間がある。
部屋にあったパンフレットを見て行きたいと思った場所がある。この近くの上下(じょうげ)という町だ。
ちょうど第1便のピースライナーに乗れば行くことができる。

矢野温泉からバスで約10分、上下駅に着く。

江戸時代、島根県で産出された銀を瀬戸内に運ぶ街道(銀山街道)があり、幕府の領地となった上下は集積地として栄えたらしい。
幕府が倒れた後も長らく賑わっていたのだろう、レトロモダンな建物があちこちに残っている。

これほど趣が残る町ならば観光地としてそれなりに知られているのかもしれないが、私は今回の旅ではじめて上下町の存在を知った。町にも観光地っぽい雰囲気がない。人通りも少ない。

うすらさみしい上下の町を写真を撮りながら歩く。

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明治時代に建てられた警察署

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「映画実演」というはげかかった文字の看板がかかった建物があった。

大正時代に立てられた「翁座」だ。
近づくと入口が開いていたので入ってみた。地元の方が何かの準備作業をしていた。
聞くと、翁座は現在興行は行われてないが、たまに地元のイベントで使われているそうだ。
200円で館内を見学できるとのこと。今日は見学日でなかったようだが、見学させていただけることになった。

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2階席から

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花道も回り舞台もある本格的な芝居小屋だ。
途中から映画館に変わったのだろう。

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興行していた当時の看板やポスターが残されていた。
かつて浪曲の黄金時代には、日本各地の芝居小屋で浪曲公演が行われていた。浪曲公演の看板も残っていた。

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上下駅に戻る。
駅前にタクシーがいてくれてありがたい。

タクシーにのって矢野温泉あやめへ。
運転手さんに矢野温泉の大衆演劇公演のことを聞いてみた。
団体客ばかりだと思っていたが、個人の大衆演劇ファンの方もけっこう観に行っているらしい。

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大衆演劇場=演芸場は1階にある。

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この日は25~30人くらいの団体さん1組が来ていた。皆さん開演前に食事をしている。

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宴会場後方
壁にはこれまで公演した劇団のポスターが飾ってある。

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かなり幅がある大きい舞台だ

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下手花道も大衆演劇場らしく作られている。手入れが行き届いているのかキレイだ。

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宴会場入ってすぐのところに受付カウンターがあり、カウンター後ろの大きな冷蔵ケースにはビールや酒やコップが並んでいる。その隣にはおでんコーナーがある。

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テーブルに紐でつながれた栓抜き。

正午12時に大衆演劇昼の部のお芝居が始まった。
お客さんは団体客の他に大衆演劇目当てで来たと思われる数人がいて全部で30~35名。

この日の公演は劇団秀(ひで)だ。私は劇団秀も千澤秀(ちさわひで)座長も観るのははじめて。
下町かぶき組の劇団は東京近辺や大阪近辺で公演することが少ないから観る機会があまりない。
今月劇団秀に帯同しているらしい劇団絆の錦蓮座長も私ははじめて見る。

千澤秀座長と師匠の松井誠座長とはおじとおいの関係。
秀座長は下町かぶき組に入って劇団誠流に在籍して、2008年に旗揚げした。1974生まれというから座長になったのは34歳くらいか。

矢野温泉あやめの公演は昼の部のみ。
第一部お芝居 12:00~13:00
第二部舞踊・歌謡ショー 14:00~15:00

この日のお芝居は「親恋しぐれ」。
劇団秀はヤマを上げない芝居で現代劇に近い発話が印象的であった。

第一部が終わり休憩時間となった。

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休憩時間は舞台が開放されお客さんのカラオケタイムとなる。

しばらく誰も歌わないので今日はカラオケなしかなと思ったが、団体客の方々がそわそわしていることに気づいた。
やおら一人の方が立ち上がり、それでは私が口火を切らせていただきましょうといった態で舞台に近づき1曲歌った。

次の女性が歌う番になると、客席の他の女性らが「いこっか?」「いく?」みたいな目くばせをして4人が小走りで舞台に上がり、カラオケを歌う女性の後ろに等間隔に並んで歌に合わせて踊り始めた。
日本舞踊をたしなんでいるらしいバックダンサーはちゃんと踊りの振付がそろっている。着物に扇子ではなく、私服にうちわ。
文字どおりの大衆演芸。
休憩時間の舞台開放で、用意してきた衣装を着て団体で踊る、というのは見たことがあったが、カラオケに半ばアドリブで加わって後ろで踊る、というのは見たことがなかった。
この後に続くカラオケでも同じような光景が見られた。このように普段趣味でやっている芸事を気軽に舞台でかけられる場があるのはとてもいい。演芸は好きだけれども観るだけというお客さんがほとんどだろうけれど、もっと演芸の敷居を低くして、趣味としてやっているというお客さんを増やすことは、演芸界の未来にとってとても大切なことだと思う。そして芸事であるからには人前で見せる場というのは必要だ。できればそれは日常的な場がいい。
大衆演劇場かくあるべし、あやめの休憩時間にそう思ったのでした。

第二部の舞踊ショーが始まった。

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千澤秀座長

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私が芝居・舞踊ともにいいなと思ったのが花咲竜次(はなさきりゅうじ)さん。
コミカルな演技からシブい舞踊までとても芸達者な方。
雑誌やネットではあまり知られていない役者さんだと思うけれど、花咲さんのような名役者に思いがけず出会うところに旅芝居の世界の奥深さを感じる。

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ラストショー

お昼の部の終了後、劇団員は演芸場出入口付近のロビーでお見送り。
座長との2ショットポラロイド写真サイン入り1,000円をお願いした。

団体さんは旅館の前に待機していた送迎バスに乗りこんでいる。

私は、電車に乗って福山まで出る。
矢野温泉あやめから最寄駅の備後矢野駅までは約2km、歩いて30分くらい。

駅までの下り坂を歩いて間もなく、旅館の乗用車が後ろからやってきて私の横に止まりった。
私がバスで帰るものと思ったらしく、私がバス停を通り過ぎるのを見て、場所を間違えたのではないかと追いかけてきてくださったのだった。
備後矢野駅まで歩いてゆくつもりだと告げると、駅まで車で送りますとお申し出くださった。

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私を備後矢野駅で降ろし、あやめの車はUターンして帰ってゆく。
矢野温泉あやめの親切な従業員さん、あのときはどうもありがとうございました。

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備後矢野駅の駅舎
駅のまわりには誰もいない。

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福塩線備後矢野駅時刻表
電車は1日7本しかこない。
ネットで1日平均乗車人数を調べると17人となっている。
もちろん無人駅、と思いきや、、、

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「道をおたずねください」という看板が立っている。これはこの駅から矢野温泉へ向かう方への配慮であろうか。
そして駅舎に「うどん・そば」「営業中」という看板がかかっている。
まさかこんなところに食堂が・・・?
あとこの「廃食油回収箱」というのは何なのか。

駅舎に入って左に進んだ先に、せんべいや木彫りの置物が置いてある売店コーナーがあり、その右手が食堂になっていた。
食堂の厨房と思われる場所におばさんがひとり居た。
看板のとおり食堂が営業していた。

電車はしばらくこない。私は昼食をとっていない。
ということでこの興味深い食堂で食事することにした。

メニューは、メインである各種うどん・そばの他に「うこっけいの玉子」もオススメのようだ。
うこっけいの玉子ごはんとうどんのセット650円をいただくことにする。

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駅舎の奥の方にはカウンターと小上がりがある。メニューにはビール、酒、焼酎もある。
なんだか小料理屋みたいだ。ここは地元の方にとっていこいの場でもあるのかも知れない。
寒い冬の夕間暮れに焼酎のお湯割りを飲みながら仲間や食堂のママさんと談笑する人々の姿を勝手に思い描いてしまう。

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うどんもうこっけいの玉子もとても美味しかった。
この日が寒かったので暖かいうどんはありがたい。

食堂のママさんは気さくな方だった。
こんどこの駅に寄る機会があったら、地元の方々が飲んで集まってるような時間に来てみたいな。

もうすぐ帰りの電車がやってくる時間だ。

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備後矢野駅のホーム
この駅のローカル度がよくわかる写真

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塩福線の車両がやってきた。

福山まで行くには府中という駅で必ず乗り換えなければならない。福山-府中間しか電化されていないらしい。だからこの車両は正確には電車ではない。

田園風景が続くローカル線の車窓も、福山に近づくと住宅地に変わる。4日間の旅が終わる名残惜しさ。

福山駅から新幹線に乗り東京へ。缶チューハイを飲みながら撮りためた写真を見る。
上下の町並み、山間の旅館の旅芝居、備後矢野駅の食堂、どれも旅情いっぱいだった。

たくさんの思い出をお土産に4日間の広島大衆演劇場めぐりの旅は終わった。

(旅日記終わり)

【後日談】

この旅の約2ヵ月後、矢野温泉あやめが2016年12月末で閉館することを知った。
旅の直後だけあってとても残念なニュースだった。
またいつか矢野温泉に行きたいなと思っていたのに。
おそらくもう一生、備後矢野駅に降り立ちあの食堂を訪れることもないだろう。
でも、あの食堂いまどうしているかなと、何かの拍子にふと思い出すに違いない。
あやめの玄関の前にいたあの大きな亀はどうなったのだろうか。
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古刹に見守られている山間の町の大衆演劇場 「せら温泉」

【広島大衆演劇場めぐり4日間一人旅】 3日目
古刹に見守られている山間の町の大衆演劇場 「せら温泉」


今日目指す「せら温泉」がある世羅町は広島県の中央よりやや東方の内陸にある。

世羅町には鉄道駅が1つだけあるが、町の中心部から8kmくらい離れているうえ、1日10本も電車がとまらない。
行きにくい。しかしこの行きにくさにわくわくしてしまう。
大衆演劇場探訪は行きにくい場所にあればあるほど旅気分が味わえるものだ。

広島市街の交通といえば路面電車であるが、もっと遠方への交通手段としてバスが発達している。
その拠点となっているのが原爆ドーム近くにある広島バスセンターだ。

バスセンターから世羅町へはピースライナーという高速バスで行くことができる。


薬研堀のカプセルホテルを朝早く出発して、人気のなくなった白々とした歓楽街を抜けて平和記念公園へ。
原爆ドームをしばし眺める。
この近く紙屋町の交差点は、県庁やバスターミナルが隣接するまさ広島の中心地といった場所。
広島そごうと一体となっている大きい建物にバスセンターがある。

早朝の街中にはあまり人がいないけれど、バスターミナルの中には人が集まっていた。でもまだ売店も開いておらず静かだ。

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要塞のようなバスターミナル

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世羅を通過して甲奴(こうぬ)まで行くピースライナーのほか、ローズライナー(福山行)、フラワーライナー(尾道・因島行)、リードライナー(府中行)、クレアライン(呉・阿賀行)、とびしまライナー(とびしま海道を通る)といった長距離バスがでている。
昔好きだったアニメ銀河鉄道999にでてくる宇宙に浮かぶ球状の巨大ステーションを想起してしまう。

ピースライナーは1日5本でている。第1便は8:00出発。9:29甲山営業所(世羅町中心部)到着予定。
約1時間半のバスの旅。

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広島内陸部の田園風景のパノラマを眺めながらバスに揺られる。

甲山営業所で高速バスを降りる。
甲山はこの辺りの前の町名で、2004年に甲山・世羅・世羅西の3町が合併して世羅町になった。今の世羅町役場は旧甲山町役場らしい。

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バス停から歩いてすぐ「史跡の町 甲山町」の門がみえる。

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門の裏は「史跡 今高野山」

ここは古いまちで縄文時代の遺跡もあり鎌倉時代には高野山領大田庄として栄えていたとのこと。
今高野山龍華寺(りゅうげじ)は鎌倉時代に真言密教の霊場として開基された古刹で今では紅葉の名所となっている。

甲山は今高野山の門前町として発展し、その後は市場町として栄えた。
市場町では商売の神様が祀られる。甲山の胡社(えびすしゃ)の夏祭りで行われていた民族芸能がある。
それが世羅町の無形民族文化財に指定されている「だんじり仁輪加(にわか)狂言」で、祭の最中山車で街中を練り歩き、各所で山車を止めては仁輪加が始まったそうだ。説明書によると、「台本はすべて自作で、現代物や時代物、時代風刺のものが多く、必ず最後に「オチ」がつけられる。観客からの掛け声やヤジに応じてセリフが変わったりと、演じ方と観客の一体感も仁輪加の特徴である」とある。
仁輪加狂言が盛んだったこの町に、かつてどれほど芝居が行われていたのかは知らないが、大衆演劇場を受け入れる文化的土壌は他の町よりも濃いのではないだろうか。

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今高野山通り

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今日は何かの祭礼の日らしい。
通りの家には丹生神社の幟としめ縄が飾られている。

歩いていると向こうから、獅子舞を先頭に神輿を乗せた軽トラックと法被を着た人々がやってきた。

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私が生まれ育った土地は昭和になって開発された住宅地だ。
昔から行われてきた祭礼が暮らしの中に息づいている町をうらやましく思うことがある。
だからこうした光景に出会うと自分がよそから来た旅人であることを強く感じてしまう。

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今高野山龍華寺と丹生神社の参道。丹生神社は今高野山の守護神だ。
写真の右下にせら温泉の看板がある。この参道の左にせら温泉がある。

まだ時間があるので今高野山を参拝する。

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丹生神社

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龍華寺御影堂(大師堂)

この日世羅町では「健康と福祉のひろば」という大きなイベントが行われていた。
甲山自治センターと甲山農村環境改善センターにて健康をテーマとしたさまざまなブースが設けられている。
地元高校生が大勢手伝いに来ていた。
カレー好きの私は、屋外にテントを出していた食生活改善推進員協議会の野菜カレー200円を食した。

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世羅町のゆるキャラ「せら坊」
黄色い頭は梨である。
ランニングシャツを着て赤いタスキを持っている。
そう、世羅といえば駅伝の強豪、世羅高校の陸上部。
イベントを手伝っていた礼儀正しい若者たちは陸上部の生徒だったようである。

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せら温泉に到着。
大衆演劇場せら温泉は2008年3月にオープンした。
昨日探訪した「ゆ~ぽっぽ」の系列店だ。やはりここも「スーパー銭湯」と名乗っている。

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玄関とフロント。
靴を靴箱に入れ、鍵をフロントに渡す。
入浴コースと観劇入浴コースがある。
指定席をお願いし、座席表を見てよさそうな席を決めた。

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観劇のコースにすると演劇通行手形が渡される。

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スタンプカードがあり、同じ月に通えば通うほど(といっても4回目まで)安くなるシステム。
このシステムははじめて見た。

お風呂に入る。
露天風呂を囲む塀の外に緑が茂っている。この木々は丹生神社や今高野山を包んでいたあの森につながっているのだろうか。

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お風呂上りに2階の食堂へ。

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ビールを飲みながら開演時間を待つ。
食堂の奥に大衆演劇場の入口が見える。

昼の部は13時30分開演。
明確な開場時間もなく入場が始まっていた。
ここではほとんどのお客さんがフロントで指定席を決めておくのだろう。
であれば、見やすい自由席を求めて開場時間前にお客さんが劇場前に並ぶという光景がないのも当然だ。

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演劇場後方より

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演劇場前方から後方を見る

演劇場は大衆演劇場専用施設として改修されたことがうかがえるつくり。

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例えばこの花道

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下手もこのとおり。
それほど広くない部屋ながらよく設計されている。

49ある座椅子席は広々している。
その後ろのわずかなスペースに座布団だけの席もある。

センターにしてはこじんまりした客席だ。でもこの町にある大衆演劇場としてはちょうどよいサイズだと思う。

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全国の大衆演劇場に貼りたいような標語

この日の公演は劇団澤宗(さわそう)
澤宗城栄(じょうえい)と澤宗千惹(せんじゃく)の夫婦座長の劇団だ。

私は6年ぶりの観劇。そのときは千惹座長は二代目澤宗千丸だった。
2015年、息子三代目澤宗千丸が高校を卒業して正式に劇団に入団するのを機に、千惹に改名した。

この日お昼の部のお客さんは16,7名くらい。
第1部お芝居から始まった。

芝居の後の休憩時間にせら温泉のスタッフがアイスとモナカの販売に来た。

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澤宗城栄座長の女形

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澤宗千惹座長
とても芸魂を感じる座長だ。
立ち役でこれほど貫禄をだせる大衆演劇の女役者はなかなかいない。

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三代目澤宗千丸若大将19歳
あと数年で座長を襲名するだろう。もう口上挨拶はまかされている。
芝居や口上を見て、真面目でひたむきな姿勢や性格のよさが伝わってきた。
若いのにかっこつけようとしないところもいい。
いい座長になるだろうな。

※ブログへの写真掲載はご許可をいただきました

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公演中の様子

昼の部が終了。
この後は、次の目的地「矢野温泉あやめ」に本日中に移動してしまう予定だ。
高速バス、ピースライナーで移動することができる。

バスの出発まで少し時間がある。

陽が落ちてきて町が翳りはじめた。
よい感じのさみしさが胸に広がる。
写真を撮りながら甲山の町を歩く。

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バス甲山営業所の建物には
「国道184号 いやしロードの町世羅町」という大きな壁画が描かれている。

待合室には「農山村の夢乗せ発車」という見出しの記事が貼ってある。
平成8年にピースライナーが開通した際の中国新聞の記事である。

17時過ぎ、甲奴行きのピースライナーがやってきた。

(つづく)

住宅地にある平屋のシンプルなセンター「ゆ~ぽっぽ」

【広島大衆演劇場めぐり4日間一人旅】2日目
住宅地にある平屋のシンプルなセンター 「ゆ~ぽっぽ」


2日目の朝、三原駅近くのホテルを出て、電車へ広島方面へ。
次の目的地「ゆ~ぽっぽ」は広島駅の北方10km弱のところにある。

広島駅から芸備線に乗り換えて安芸矢口駅から歩いてゆこうと思っていたが、何かの自然災害があったらしく、広島駅のホームに芸備線一部運休のアナウンスが流れていた。ちょうど乗ろうとしていた電車が運休となった。本数の少ない路線で次の出発予定までかなり時間がある。バスでゆ~ぽっぽに向かうことにした。バスの時刻表もちゃんと旅の前にプリントアウトして持ってきている。

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広島駅前7番バス乗り場から、広島バス30号高陽線に乗る。

バスは原爆ドーム近くの広島バスセンターを経由して、市街地を抜けて川沿いの幹線道路を北上する。

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バスは大きな道路から住宅地内を貫く道路に入る。そこからしばらく進んだ上小田バス停で下車。
広島駅からは約30分。

なんの変哲もないのどかな住宅街。
ここから西の方5分くらいのところにゆ~ぽっぽがあるはずだ。

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途中で芸備線の線路を渡る。
ゆ~ぽっぽはここからかなり近いはずだ。
しかし、健康ランド的な建物は視界のどこにも認められない。
スマホの地図アプリをたよりに目的の住所に近づいてゆくが、もう目前になるはずなのに、建物や案内看板などがまったく見当たらず不安になってくる。これまでも大衆演芸探訪の際に場所がわからず迷ったことが何度もあった。久しぶりに見知らぬ土地でひとりさみしく不安になる体験をした。
後で気づいたが、このとき通った道はバス停からゆ~ぽっぽまでの最短ルートではなかった。上小田バス停を降りたら少しバス通りを戻り(南下し)西方の道に入るのが正しい。

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ようやく「ゆ~ぽっぽ」を発見した。
勝手に大きな建物をイメージしていたが、ゆーぽっぽの諸施設は平屋で高い建物ではない。これでは離れた場所から見つけにくいわけだ。

ここはいわゆる「センター」に該当するが、健康ランドのようにさまざまなサービスを提供する大型複合施設ではなく、大きい銭湯に食堂と劇場が併設された、といった感じのシンプルな「スーパー銭湯」だ。住宅地の中にぽつんと存在しているのも銭湯っぽい。

入口はいって正面に「女湯」と「男湯」ののれんが見えてその間に受付カウンターがある。

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券売機で入浴券を買う。
大衆演劇観劇の場合は入浴とのセットの券を買う。指定席券200円というのも買ってみた。
券を靴箱の鍵とともにフロントの係員に渡す。

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お昼の部の観劇チケット=演劇通行手形と指定席券を受け取る。

大衆演劇場開場まで時間がある。まずはお風呂へ。

ここは銭湯であり温泉施設ではない。
お風呂は二つのエリアに分かれている。
基本料金で入場した人は洗い場と大浴場あるエリアしか使えないが、料金の高い露天・サウナコースで入場した人は露天風呂やサウナが利用できる。

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お風呂から上がってから昼食の時間とした。
演劇公演が行われる宴会場では飲食はできない。
1階にある食堂「ぽっぽ亭」で食事することになる。
ぽっぽ亭も券売機で食券を買って利用する。
風呂上りのビールを飲みながら開場時間を待つ。

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大衆演劇場は別棟にあり、入浴棟と渡り廊下でつながっている。

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大衆演劇場入口。
廊下の壁にはこれまで講演した劇団の座長の写真とサインが飾ってある。

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宴会場(大衆演劇場)全景。
後方の自由席ゾーンは畳に座布団を並べただけである。

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前方の指定席ゾーンは座椅子席。
座椅子と座椅子の前後の間隔は、大きくない女性であればちょうど足が伸ばせる程度。
もっと広い方がうれしいが、足が伸ばせず窮屈な劇場もあるし、これだけのスペースを確保しているだけでもありがたいといえる。

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舞台
花道はない

お昼の部は13時30分開演。
この日は白富士一馬座長率いる劇団京弥の公演。
と書いたが、おそらく一馬座長はこの表現は好まないだろう。
というのは白富士一馬座長は「俺が座長だ」「俺が主役だ」というタイプの役者ではなく、座員みんなが活躍する劇団、という思いを強くもっている。
一時期は、一馬三代目座長・健太座長・龍太若座長の3兄弟3人座長に副座長の洸という座長だらけ劇団だった。そのうち健太座長は劇団千章に移籍した。

もともとは関西で活動していたが一馬が座長になって(2003年)から数年後、関東に移ってきた。私のホームグラウンドである川崎大島劇場にものっていたので私は毎年劇団京弥を観劇していた。
その後、どういう理由かは知らないが、2016年に劇団京弥は関東を離れふたたび関西をまわることとなった。
私にとって広島県で劇団京弥を見るのは何か不思議な感じだ。

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第一部お芝居が終わって口上挨拶。

でもまっっったく変わらないな、劇団京弥は。
多分昔からあるお芝居を脚色したり踊りのスタイルを変えたりするのが好きではないのだと思う。
とてもクラシックな劇団だ。他の劇団はいろいろ新しい(現代的な)何かを試みている。だから相対的に他の劇団より地味になってしまったのかもしれないが、先代から受け継がれた芸を大切にしている姿勢には安心感が持てる。

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白富士一馬三代目座長

今月劇団京弥には劇団蝶々の中野弘次郎座長が帯同していた。
中野弘次郎座長は端正な劇団京弥の中にあってかなりのインパクトを放っていた。
京弥には豪快な役者がいない。弘次郎座長が加われば鬼に金棒。
この日の芝居は金棒が本当に光っていた。3枚目の悪役。アドリブ豊かで存在感が大きく芝居に彩りを与えてすばらしい活躍。

昨今の大衆演劇界では芝居の途中に楽屋ネタをアドリブで入れることが約束事かのように行われている。
その多くが「想定どおりのアドリブ」と化してしまい、間の抜けた楽屋ネタが横行している。
それでもお客さんは笑ってくれるから、本来の芝居そのものの力で笑いが取れない状況において役者は楽屋ネタ・内輪ネタに走ってしまう。
楽屋ネタは笑いを取れる反面、物語の展開を止めてしまう毒薬にもなりうる。芝居の流れを保ったままサラっとやるのが望ましい。
しかしどうも最近は楽屋ネタをたくさん入れるのがお客さんへのサービスだと思っている役者が増えているのではないか。
もはやそれはアドリブ「芸」といえるものではない。絶妙なタイミングで機転のきいた楽屋ネタが入るから面白いのだ。
もちろん本当のアドリブ芸は楽屋ネタを使うものではなく、その登場人物になりきってその場のインスピレーションによってお客さんを惹きつける演技をすることである。
中野弘次郎座長の芝居の本筋を盛り上げる自由闊達な演技はさすがはプロ、さすがは座長と私をうならせるものがあった。

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中野弘次郎劇団蝶々座長

弘次郎座長は芝居では3枚目役の滑稽な化粧であったが、芝居は別人のようにシブくかっこよかった。

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第二部舞踊ショー ラストステージ

昼の部が終了した後、団体のお客さんは建物前で待ち構えていたゆ~ぽっぽの送迎バスに乗って帰っていった。
スーパー銭湯は温泉ランドよりも集客力が弱いだろう。ゆ~ぽっぽの大衆演劇の存続は団体のお客さんの獲得にかかっているのかも知れない。

私は帰りもバスを使うこととした。
上小田バス停で乗って広島バスセンターで降りる。

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せっかくなので広島風お好み焼きを食す。

2017年1月末で閉館してしまう広島第一劇場の近くにあるカプセルホテルがこの日の寝床。
ビジネスホテルはとれなかった。
広島のホテルの予約が大阪以上に厳しいは思わなかった。

(2日目おわり。3日目につづく)

見晴らし抜群のお風呂がある瀬戸内の大衆演劇場 「みはらし温泉」

【広島大衆演劇場めぐり4日間一人旅】1日目
見晴らし抜群のお風呂がある瀬戸内の大衆演劇場 「みはらし温泉」


2016年10月、広島県の大衆演劇場をめぐる旅に出かけました。
4日間の一人旅です。

最初の目的地は三原市にある大衆演劇場「みはらし温泉」。

東京から新幹線のぞみに乗って福山駅まで。そこで山陽本線に乗りかえて約30分で三原駅に到着する。
駅のすぐ目の前に三原城の遺構の石垣が見える。というより、かつて三原城本丸があった場所を山陽本線と新幹線が貫くかたちでここに駅舎ができたのだ。

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駅のまわりあちらこちらで三原の名産である蛸の絵やオブジェを目にする。
駅の北側彼方にはゆるやかな山の連なりがあり、反対側の駅舎南の広いロータリーの周りにはそれほど高くないビルがいくつか並んでいる。人通りは少なく、せわしなく歩く者はいない。小さな綿雲は絵画のように青空に貼り付いていて、時間がとまった町に入り込んだかのようだ。ここからは海も港も見えないが、なぜかしら「海が近い地方都市」という気配を感じる。

ホテルに大きな荷物を預けて、みはらし温泉を目指す。

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西口通路から、みはらし温泉の送迎バス乗り場がある隆景広場に向かう。

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隆景広場。
右手、タクシーの奥に見えるのがみはらし温泉の送迎バス。

この広場のすぐとなりに広大な三原城跡がある。
三原城は毛利元就の三男、小早川隆景によって築かれた。築城以降兵火に遭うことはなかったというが明治時代に城郭のほとんどが壊されてしまった。

みはらし温泉の送迎バスがしばらく市街地を走ると左手の車窓が海に変わった。海の向こうにはいくつもの山が深閑と連なっている。あれは皆島なのだろう。いかにも瀬戸内海らしい光景。本州と四国を結ぶしまなみ海道はあの山の向こうにあるはずだ。

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海沿いの道の右手に見えてきた円柱状のシルエット。あれが今日の目的地みはらし温泉の建物。

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みはらし温泉到着。
建物1階に小さなロータリーがあって送迎バスはそこでお客さんを降ろす。
すぐには建物に入らずまわりを少し歩いてみる。

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みはらし温泉は宿泊施設も併設している。「夢の宿」という大きな宿泊棟。

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入口は2階にある。2階には道路を隔てた駐車場からの連絡通路が接続されている。

2階フロントで受付。 
入館料は980円。もちろんこれで温泉に入れる。
大衆演劇観劇は別料金だ。プラス870円必要。
昼の部と夜の部を両方観たければ入館料に加え、870×2=1740円必要

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フロントでロッカーキーと観劇入場券を受け取る。
入館時に支払いはない。退館時にすべて精算するシステム。

大衆演劇お昼の部の開場時間は13時とのこと。
それまで温泉に入ることにする。

4階の廊下に浴場カウンターがあり、そこでタオルと館内着を受け取る。

旅先で昼間っからお風呂に入っていると、ふだん頭の中にこびりついている「あれやんなきゃ、これやんなきゃ」というノイズが霧消し、脳みそを洗い流したような開放感に包まれる。

湯船に面した壁一面が硝子張りになっていて、瀬戸内海の海と島々がよくみえる。
なるほど、これは「見晴らし」温泉だ。
露天風呂がないのが少々残念である。硝子越しではなく直接この光景を見ながらお湯につかれたら相当な旅情を味わえたに違いない。

温泉はしょっぱい。かなりナトリウムの含有量が高い泉質のようだ。いかにも温泉に入っている感じがする。

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3階の休憩室から撮った写真。お風呂からもこのような風景が見える。

お風呂から上がって大衆演劇場へ。

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3階の廊下の壁に演目が貼り出されている。

13時前に劇場入口に来てみると、もうすでに入場が始まっていた。
開場時間はあまり厳格に運用していないみたい。
入口で係員に入場券を渡す。

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劇場後方より

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舞台前
舞台はそれほど高くない。

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前方は座椅子席

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後方は椅子席
舞台が高くないので、フラットな床に椅子をただ並べただけでは、椅子席2列目より後ろの席では、視野が前のお客さんの頭でかなり遮られてしまうだろう。
椅子席に関しては、はっきり申せば「劇場」として絶望的なつくりといえる。せめて舞台がもう50cmぐらい高ければよかったのだが、天井が高くないから現状の高さでやむを得ないだろう。

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自由にお取りください式の座布団。

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花道。
ホテルの宴会場を大衆演劇場に改修した場合にこういう花道をよくみかける。

この劇場は見やすい席とそうでない席の差がはげしい。
多分人気順では、
①椅子席最前列
②前方座椅子席
③椅子席2列目以降
ということになるだろう。
実際この日は椅子席最前列の多くは予約がはいっていた。

予約が入っていない席=自由席については、少しでもよい席ととろうとお客さんがガツガツしそうだが、そういう殺伐とした空気がない。みはらし劇場のお客さんからは「他の人をおしのけて自分がなるべくいい席を」という気概が感じられない。あるがままを受け入れる、というか、ただのんびりとしている。この日のお客さんの年齢層はさまざま。センター公演の常として、お客さんの多くが中年以降の女性、と想定していたが、若者も多く、その中には男性もいる。家族で来ているのだろう、子供もよくみかける。館内着を着ているのは1~2割くらい、ということは観劇だけが目的で来ている方が以外と多いのかな。
そんな人々が開演前の客席でスマホをいじっていたり、ぼーっとしていたり、自宅の居間でくつろいでいるかのようにのんびりしている。
ああ、時間の流れがゆるやかだ。
東京近辺の劇場の開演前とは何か根本的なところで雰囲気が違う感じがする。
なぜみはらし温泉に別世界の時の流れを感じたのか。ここに集うお客さん方は、東京人に比してふだんから時間に寛容な暮らしをしているのではないか。やりたいことを効率的にこなすことで得られる豊かさより、気忙しさから開放されることの豊かさを選んでいるのではないか。そんな憶測がよぎるのどかさであった。
立川談志は、「上品」を「欲望に対してスローモーなこと」と定義したそうで、私はこれをなるほどと思ったが、この箴言を敷衍して私は「急いで得をしようとしない人は心豊かな庶民」とでも言ってみたい。
寄席や演芸場は、そういう心豊かな庶民の日常的な居場所であってほしい。日本では、人々が日常の延長・生活の延長として過ごすような演芸場の数がもう何十年も低迷している。近所の人や仕事帰りの人が予約なしでぶらっと入って、ゆったりとした時間に身をまかせて過ごし、劇団から元気をもらって帰る・・・そんな大衆演劇場がもっとあったらなあ・・・
最近の私は気づいたら、こんな大衆演劇場を作って経営してみたいな、という夢想をしていることが多い。しかし今のところそれは、佐藤春夫の「美しき町」のごとくの妄想であり、現実的な夢と呼べるものではない。


このときみはらし温泉にのっていたのは美波大吉座長率いる劇団春駒。
劇団春駒は以前石川県に射なか座という大衆演劇場を持っていた。
美波大吉座長が難病の息子のために、その主治医の病院の近くに劇場をつくったそうだが、建物の持ち主の意向により2014年9月に閉館してしまった。閉館のニュースをききつけて私は石川県まで射なか座を見に行ったことを思い出す。(そのときの探訪記はこちら

第一部お芝居は「文七元結」
主人公の男が娘を女郎屋に預けてまで作った金を、身投げしようとしていた若者にあげてしまうという話である。

大衆演芸の物語は「なんでそうなるの」と突っ込みを入れたくなるような展開が多い。
だから、演者においてはお客さんに心の中で突っ込みを入れさせないような工夫と技量が必要だし、お客さんにおいてはその術中に入り細かいことを気にしないのが心得といえる。と書きつつも、告白すれば私は、昨今の大衆演劇の芝居の途中で「?」と思わないことの方が少ない。大衆演劇ではお客さんの興味が芝居から舞踊にシフトしつつある、というコメントを目にすることがあるが、これは単にお客側の嗜好の変化の問題だけではなく、劇団側の内省不足(お客さんに「?」を与えないかどうかの考察不足)の問題もあろうかと思う。どうしてこうも辻褄の合わない展開に無頓着でいられるのだろうか、と思うことがある。それと、ぐだぐだな芝居も多くなっている気がする。セリフにリズムがあるように、芝居の構造・展開にもリズムがある。セリフのリズムを楽しむのと同時に展開のリズムも楽しみたい。リズムのある芝居は話が多少の矛盾をはらんでいても気にならない。

文七元結は、現代人の感覚では起こりえない展開で、お客さんの突っ込みを誘発しやすい演目だろう。
だが、劇団春駒の文七元結はとてもよかった。
主人公が若者を助ける場面では、登場人物の心の機微を無理なく丁寧に描いていて、話の展開に説得力があった。
美波大吉座長の芝居を他にももっと見てみたい。

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美波大吉座長

唯一、主人公にお金が戻ってくるときに主人公が返金を拒む場面は「?」であったが、全体としてとても楽しめた芝居だった。
小学生くらいの子供が何人もいたのに、かなりきわどいセリフのやりとりがあり、私の前に座っていたおじいちゃんは子供をあやして注意を逸らそうとしていた。

芝居が終わり、休憩をはさんで第2部の舞踊ショー。
座長の息子をはじめ若手中心に奮闘している。

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椅子席最前列の左側の席より。ここは見やすい。

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椅子席後ろの方にも座ってみた。
3つ前の席のお客さんの頭でさえかなり気になる。
前の席や前の前の席にお客さんがいたらさぞ見にくいことだろう。

この日は演歌歌手がプロモーションに来ていて、劇団公演の後引き続き歌謡ショーとなった。

公演後、私の心に持ち上がったのは今日の夕食の問題である。
みはらし温泉には食事できる場所が1箇所ある。

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2階フロントの近くに活魚料理専門店魚三昧という、ダイレクトなネーミングのレストランの入口がある。

ここで一人じゃさみしそうだなと思い、夜は三原の町で居酒屋を探すこととした。
フロントで精算を済ませる。

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出入口近くに飲泉場がある。
どれどれ、と備え付けの紙コップをとって何気なしに温泉を飲んだら、、、
しょっぱっ!!!
思わずむせてしまった。
よく見ると「初めての方はうすめると飲みやすいです(5倍~10倍)」と書いてある。
逆に常連はこのかなりしょっぱい温泉をそのまま飲んでいるのか。
朝晩コップ1杯が適量らしい。
「悩み解消ね!」と言いながら温泉を飲む女性の写真があるけど、塩分の摂りすぎ大丈夫?

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帰りも無料送迎バスを利用。
みはらし温泉近くのバス停から公共バスで三原駅に行くこともできる。

夕方、三原駅近くの繁華街を歩く。
30分も歩けば飲み屋があるあたりはだいたいまわれる。
目星をつけた居酒屋に入り、瓶ビールを傾ける。
カウンターで蛸料理をつまみながらゆっくりと三原の夜を過ごした。

(1日目おわり。2日目につづく)

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

河内音頭、浪曲、大衆演劇そして小説とさまざまなジャンルで扱われている「河内十人斬り」は実際にあった事件がきっかけとなって芸能化されました。
史実と芸能、両方の側面から河内十人斬りについて、私が調べ見聞したことをまとめました。


【もくじ】  ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■場所、時代
■人物
■何が起こったか
 ◆十人斬りの夜
 ◆金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索
 ◆犯行の動機・二人の遺恨
 ◆事件前の二人
≪「河内十人斬り」編≫
■事件から芸能へ
■河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」
 ◆河内十人斬り十段
 ◆京山幸枝若の「河内十人斬り」
 ◆錦糸町河内音頭
■大衆演劇
 ◆劇団炎舞の「河内十人斬り」
 ◆たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
■小説 町田康「告白」
 ◆物語の舞台を訪ねて

 
≪史実編≫

場所、時代
大阪府東部の河内地方(旧河内国)の南、つまり南河内地方に、その名も南河内郡という郡があり、南河内郡の南に大阪府で唯一の村、千早赤阪村があります。その中の水分(すいぶん)という土地、当時の表記に直すと河内國石川郡赤阪村字水分で事件は起きました。
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 ↓千早赤阪村
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水分という土地で起きたので、この事件を「水分騒動」と呼ぶこともありす。
事件が起きたのは明治26年5月25日です。

人物
※★印の付いている者はこの事件で亡くなった十人
※年齢は事件当時

城戸熊太郎(きどくまたろう)(36)酒と博打と女に身を持ち崩す村の無頼者
谷弥五郎(たにやごろう)(26)熊太郎の弟分。賭博が好きで喧嘩は飯より好き。窃盗二犯の前科あり。

平次(68)熊太郎の父
たか 平次の前妻 熊太郎を生むが熊太郎3才のときに他界
とよ(57)平次の後妻 幼い熊太郎を育てる
光蔵(17)熊太郎の異母弟

やな(19)弥五郎の妹 奉公に出ている

森本ぬい(19)熊太郎の内縁の妻★
森本とら(44)ぬいの母★
森本うの(15)ぬいの妹

松永傳次郎(50)
松永たけ(54)傳次郎の妻★ 
松永左五郎(20)傳次郎の三男★
松永すゑ(13)傳次郎の三女★

松永熊次郎(28)傳次郎の長男★ 熊太郎からの借金を踏み倒す
松永りゑ(26)熊次郎の妻★
松永久太郎(5)熊次郎の子★
松永幸太郎(3)熊次郎の子★
松永はるえ(乳児)熊次郎の子★

松永虎吉(23)傳次郎の次男 ぬいと姦通する

浅井てる(27) 弥五郎と親しい仲
浅井傳三郎 てるの父 弥五郎からてるを嫁にくれと言われるが断る
浅井ふで てるの母

何が起こったか
当時の朝日新聞・毎日新聞の記事および「残害事件河内十人斬り」(事件直後に刊行された事件をまとめた本)を主に参考として事件のあらましをまとめました。ただし、当時は噂話レベルの不確定な情報でも新聞に掲載していたようで、各記事の間に齟齬が生じている部分もあります。それを取捨選択してまとめたものであることをご了承ください。なお、新聞には被害者死体の様子が具体的に描写されており そのむごたらしい殺され方から、加害者の異様なまでの憎悪の念を推し量ることができますが、このブログにおいてはグロテスクな惨殺状況の描写は割愛いたします。


河内の国、石川郡赤阪村字水分は忠臣の誉れ高い楠正成公が誕生した霊地であり、金剛山の千早の渓谷から水が清く流れ落ちる由緒ある土地である。
この村で恐ろしい残害事件が起こった。

十人斬りの夜
明治26年5月25日。
嵐のような暴風雨が昼から続く物凄まじい夜。
熊太郎と弥五郎は松永傳次郎宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。出てきた傳次郎は斬りつけられ、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って辻繁蔵宅に逃げ込んだ。熊太郎らは、家の中に居た傳次郎の妻たけ、三男左五郎、三女すえを惨殺し、家に火を放った。

二人は傳次郎の長男、松永熊次郎の家を襲った。熊次郎は兇漢を見て「賊よ賊よ」と叫んだが誰も出てこない。熊次郎は家の近くの道路を越えて逃げたが、ついに麦畑でズタズタに斬られて死んだ。家の中にいた熊次郎の妻りゑ、子供の久太郎、幸太郎、赤ん坊のはるえの4名もむごたらしく斬殺された。

森本とらも自宅前で背中を銃で撃ち抜かれて死んだ。

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 事件があった場所の略図(明治26年5月29日毎日大阪新聞に掲載された図をもとに作成)
 ①松永傳次郎宅、②谷弥五郎の借家、③浅井傳三郎宅、④森本とら宅、⑤城戸熊太郎宅、⑥松永熊次郎宅

熊太郎の父平次は傳次郎の家が火事だと聞き現場へ駆けつけていた。家の外で火事を見ていた平次の妻の肩をつかんだ者(おそらく熊太郎)があったが、何だばあさんかと言い捨てると家に向かった。その者は、火事を見ようと庭先に出ていたぬいを見つけて斬りつけた。ぬいは逃げたが家近くの納屋で頭を打ち砕かれて死んだ。ぬいの妹うのは家に居合わせていたが、逃げなかったらお前も殺すぞと言われて逃げ、警察署に通報した。

浅井傳三郎の家の寝床の下からズドンと音がした。傳三郎は驚いて近所の者を集めて畳をひきあげてみると、大きな竹に火薬を詰め込んで発火させた跡があった。誰の仕業だろうと話しているところに、三発の砲声とキャっという叫び声が聞こえた。皆顔が青ざめて、現場を見にゆく者はいなかった。

熊太郎、弥五郎は金剛山へ逃げ隠れた。
弥五郎は村で最もこの辺の山の地理に詳しく、山猫というあだ名まである。

意図したものか偶然か、5月25日は楠正成公の命日である。

金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索

5月26日
富田林警察署から警部・巡査が、大阪地方裁判所から判事・検事が、また大阪府警部長が水分村に出張してきた。

はじめは、犯行者は複数人であること、そのうち一人は城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、事件後行方をくらました城戸熊太郎と谷弥五郎を捜索対象と見定めた。

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡った。誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って黒土にして一人残らず殺す、と噂がたって皆恐れた。老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。村中の者は家業を休んで昼の間は寝て、夜は竹槍、鋤、鍬などを持って村内を巡回した。
皆寝食を忘れ腰弁当を付けて捜索に従事した。

夜11時頃、熊太郎は二河原辺にいる親戚の竹次郎の家に入った。竹次郎は留守で妻のかめがいた。飯を炊くよう頼むがかめは断った。二人は炊いてあった粥を食べて立ち去った。

5月27日
大阪の新聞にこの事件が報じられた。以降約半月にわたってこの事件の速報が紙面を賑わす。犯人追跡の状況や事件の背後関係などが新聞で詳細に伝えられた。
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夜、森本うのは何者かが門の戸を叩いているのを聞いた。庭先で別の人の声がして、それを聞いたのかその者は逃げ去った。

5月28日
午前8時、大阪府の鈴木警部長は富田林から電話で大阪南、東、堺の三警察署に警部巡査の非常招集を発した。これにより警部・巡査らが総勢147名現地に集まった。探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき、午後1時に捜索を開始した。

午後3時頃、金剛山の千早の炭焼窯に血の付いた草鞋があった。また二河原辺ゴセ谷の炭焼窯にも焚火の跡があった。

午後5時頃金剛山の中、大字二河原辺字餅子坂に、熊太郎と弥五郎が来た。二人はそこに居たきこりの庄太郎に銃口を向けて逃げねば殺すと言った。庄太郎は逃げて出張所に届けた。中津原・東坂・千早などから各村10人が竹槍を持って二人を捜索していたが見つからなかった。

午後7時頃、飴寅こと寅蔵および藤太郎の二人が寝泊まりしている山の中の木挽小屋に熊太郎らが現れた。熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携えていた。右の指三本に傷を負っていた。弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていた。二人とも腰に弾薬を多数着けていた。
熊太郎はここに警部巡査が来たかと尋ねた。前日午後4時頃まで警部巡査が来ていたが木挽小屋の二人はこのことを隠した。熊太郎らはここで一泊すると言い、藤太郎らには我々が去るまで便所にも行くなと言った。
警察は我等を発狂人のように云っているようだが可笑しいことだ。松永伝次郎一家をはじめ恨みのない者は殺さない。まだ恨みのある者が4,5人いる。旧暦9月ごろまで逃げてその間に宿志を晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬ積りだ。
熊太郎は木挽小屋の二人にそのように語った。
藤太郎と寅蔵は抜け出して密告しようと鼾をかいて寝たふりをしたが、熊太郎らはそれを察したのか一睡もしなかった。朝が近づくと、飯を炊かせ、米一升を奪った。熊太郎は二十銭を出したが、木挽小屋二人が受け取らないのでそれを投げた。熊太郎らは朝4時頃去った。

5月29日
雨が降った。捜索者はビショ濡れになり、その心労は甚だしかった。

5月30日
夕方、木挽小屋近くの山中で煙が立っているのを5名の巡査が認めた。

金剛山腹の村に熊太郎の親戚の新田達次郎の家があった。巡査がこの家に忍んでいたところ、戸外から兄貴兄貴と呼ぶ声がした。巡査が躍り出たが、呼んだ者は逃げてしまった。家の者はあの声は熊太郎に違いないと言った。

5月31日
事件7日目である。遺族は僧に仏供養を依頼した。

夜11時頃、熊太郎、弥五郎は水分村の赤松瀧造の家に現れた。瀧造はいなかったが妻の小りうに何か炊いて食わせてくれと頼んだ。幼児を抱いて横になりながら具合が悪くて弱っていると小りうが答えると、熊太郎らは仕方ないと戸外に出た。小りうは幼児を抱いたまま出張所に届け出た。水分の老若男女は賊が村内に入ったと聞いて逃げまどった。

弥五郎は養父谷善之助を訪ねた。隣家には巡査が張っていて、弥五郎が家の中に入ったら取り押さえる算段になっていたが、善之助は臆して戸を開けなかった。弥五郎が立ち去ろうとするところを巡査が追いかけたが、弥五郎は東條川の向う岸の竹藪に逃げて銃を二発放った。

その後、青木谷の地蔵堂近くに張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。熊太郎らは二発発砲して逃げ、巡査に間近まで追い詰められたが、黒鞘一尺三寸ほどの刀を投げて、水分の徳赤という難所に逃げ込んだ。

熊太郎らが三カ所に現れたことを受けて、警部巡査はますます警戒を厳しくした。応援の部隊も続々と到着した。

松永傳次郎の縁故者や熊太郎らに金銭の貸し借りがある者20名を警察が保護することとなりそれぞれの家に巡査が詰めた。

* * *
森本うのは谷口警部が引き取り、妻に世話を見させ読み書き裁縫を教えることになった。

熊太郎の親は村人に合わす顔がないと自害しようとも思ったが、熊太郎の異母弟の光蔵はまだ17才でその難儀を思うと死ぬこともできない。熊太郎が売り残した田地一反あまりを松永傳次郎に送って謝罪したいと言った。
森本とら親子の仏事料として、所有していた藪・畑地・山林を遺族に与えたいと村人に申し出た。そして十人の霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために光蔵を連れて四国88カ所西国33カ所の霊場を巡礼する積りだと涙ながらに言った。

事件の日、松永虎吉は宇治へ製茶の仕事で出かけていて不在であったが、事件を聞き急いで帰村した。親兄弟の無残な死を見て遺恨やる方なく、熊太郎の所在がわからなかったら、残った父平次と継母と光蔵の三人に対して鬱憤をはらそうと力んだが、そこへ村人が仲裁にはいって虎吉を宥めすかして、以後恨みをもたないとの約束をさせた。

6月3日
8時頃、熊太郎の親族は、熊太郎を探し出して自首させようと親族5名で金剛山に入ったが夕方むなしく帰村した。

6月4日
8時頃、この日も熊太郎の親族は出かけたが夕方帰ってきた。

6月5日
雨が降っており、熊太郎の親族は捜索を見合わせた。

巡査が金剛山の三ツ谷で、杉の皮を屋根にして人が寝た跡を見つけた。また戻ってくるかもしれないのでここで待ち伏せすることにした。すごい雨が降ってきたが結局熊太郎は現れなかった。

金剛山中の別の場所では百合を焼いて食った跡が見つかった。

6月6日
165名の警官が大阪からやってきた。

6月7日
正午、図面と照らし合わせて蜘蛛の巣を張るように探索場所を定め、一隊3名、全部で50余隊が繰り出した。

大阪安治川水上警察署の巡査4名はその日は野宿して、翌日は水分から4kmほど離れた難波山の杉の深林に入った。午後3時頃、とても険しい所にある杉の木に足をかけて仰臥して死んでいる熊太郎を見つけた。その左側より一間離れた杉の根元に谷弥五郎が死んでいた。その様から推測すると、熊太郎が弥五郎を背後から不意に銃殺し、その後熊太郎は銃で胸を撃って死んだのではないかと思われた。
10人が斬殺された事件の犯人捜索は終結した。

犯行の動機・二人の遺恨
(熊太郎と虎吉)
前年11月のこと、松永傳次郎の息子虎吉は、熊太郎の家へ行って夜更けまで遊んだ。虎吉は遅いから泊めてくれと言って、熊太郎・ぬい・虎吉の3人で寝た。その際に、虎吉とぬいが姦通した。熊太郎は怒ったが、仲裁人が熊太郎をなだめて済んだ。
(熊太郎ととら)
ぬいを籍に入れていればよかったと思った熊太郎は、ぬいの母のとらに、ぬいを籍に入れることについて掛け合った。その際16円をとらに貸した。しかしその16円は返済がなく、ぬいの籍が移ることもなかった。
(熊太郎と熊次郎)
城戸熊太郎と松永熊次郎は賭博仲間で懇意な間柄であった。熊次郎は熊太郎に23円50銭を借りた。熊次郎は、熊太郎が催促しても返済しなかったばかりでなく、強いて返せというなら腕ずくで来いと言った。というのが村の人々の話である。
(弥五郎と傳三郎)
弥五郎は浅井傳三郎の娘てると仲がよかった。3月に奈良へ駆け落ちしたが追手に見つかってしまい、てるは親許に引き戻された。弥五郎はてるを嫁にくれと傳三郎に言ったが、傳三郎は弥五郎の身持ちの悪さ故承知しなかった。弥五郎は百円の手切れ金を要求したが、傳三郎は百円は出せぬ、娘はやりたくないと近村の侠客を頼んで対抗した。弥五郎はそれに怒り、眼にものを見せてやると思っていた。

事件前の二人
(熊太郎の墓)
熊太郎は犯行の前に田畑をおおかた売り払った。事件の7日前には赤坂村の眺めのよい場所に自分の墓を建てた。
(弥五郎とやな)
弥五郎は貧しく、竹田市五郎から8畳の家を月10銭で借りていたが家賃を3か月滞納していた。1週間前に弥五郎は30銭を持ってきて家賃を支払った。家の中は鍋釜をはじめ諸道具はなくなり掃除されていた。
弥五郎には19才の妹やながいた。やなは二河原辺の新田兵五郎方に奉公していた。弥五郎は今生の別れを告げにやなを訪ねた。農作業に出ていたやなをみつけると弥五郎は懐から1円を取り出しやなに渡して告げた。私は訳あって死ななければならない、達者で暮らしてくれ、おれのことは心配するな。それを聞いてやなは、たとえ悪人よ無頼者よと後ろ指さされる兄であっても自分にとってはたった一人の身内と泣き伏した。そのように泣かないでくれと諭して弥五郎は立ち去った。
(当日の朝)
25日の午前8時半に字南畑の飲食店池田駒太郎の所で熊太郎と弥五郎は腰かけて酒を飲んでいた。そこを通りかかった井上貞次郎に一杯飲めよと勧めた。貞次郎は断ったが無理に勧められたので10時頃まで一緒に飲んだ。
(当日)
午後四時ごろ熊太郎とぬいは相合傘で仲むつまじく家路に帰った。
夜は一同揃って夕飯を食べた。


≪「河内十人斬り」編≫

事件から芸能へ
6月7日に熊太郎と弥五郎の遺体が見つかり事件が終息を迎えました。それから間もない頃から水分村の責任者に対して、演劇関係者等からの上演の依頼書が次々届いたそうです。大阪の大劇場や、富田林の興行者をはじめ朝日新聞社員からも「十人斬恨の刃」という小説にしたいという依頼があったようです。

6月に、富田林警察の署長付きの人力車夫で江州音頭を得意としていた岩田梅吉が事件を物語化して音頭にアレンジして道頓堀の演芸場で発表しました。これが当たって45日のロングランを達成しました。

6月14日の大阪朝日新聞には「四十人斬」という見出しを付けて、道頓堀の浪花、中、朝日、辨天の四座が来月の興業には十人斬りを出してどこの十人斬りがよいか見てくれと互いに競争する、という記事が書かれています。
6月18日の同新聞には、浪花座が河内の十人斬りを狂言に仕組むにあたって村長を経て関係者へ金を送り興行の承諾書をとった、とあります。このときの演題は「河内十人斬」で、金剛山から里に出てきて何杯も何杯も飯を食べる場面が好評だったそうです。

また、私が今回参考文献とした「残害事件 河内十人斬り」という本は、奥付に「明治26年6月12日印刷」とあるとおり、事件直後に発刊されています。

当時の大衆芸能が耳目を集める事件をいかに敏速に取り入れていたか、また河内十人斬りの事件が市井でいかに話題性が高かったかを上記のことからうかがい知ることができます。


河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」

江州音頭をベースした「改良河内音頭」という節回しによる岩田梅吉の「河内十人斬り」がヒットしたことは、それまで河内のそれぞれの村で独自に歌われていた音頭に大きな影響を与えたに違いありません。梅吉はその後レコードも出し、戦後も梅吉の名を継ぐ後継者が十人斬りのレコードを発表していたようです。
河内音頭が現在のスタイルに確立されるまでは明治・大正・昭和にかけてさまざまな変遷がありました。梅吉考案の音頭は、河内音頭が現在の形に至るまでの系譜には直接つながらないようです。にもかかわらず現在の河内音頭の代表的なナンバーが「河内十人斬り」であるのは興味深いことです。兇漢二名による惨殺事件というまことにネガティブな内容の外題が、現在に至るまで語り継がれてきたのは何故なのでしょうか。
私にそれを考察する見識はありません。ただ、人々が「河内十人斬り」という事件を語り継いで来た、というより、事件としての「河内十人斬り」は後世の人々が関心を抱くような物語として変容し続けてきた、というべきでしょう。
例えば、6代目梅吉の「河内十人斬り」には、日暮れ後に虎吉がおぬいのもとに這っていって乳繰り合っているところを同じ目的でそこに訪れたと思しき弥五郎がその様子を盗み見る、という場面があるそうですが、それを朝倉喬司氏は当時のムラ社会に当たり前に流布していた夜這いのゴシップが盆踊りという場で歌われる音頭に昇化した例だと指摘しています。(参考文献:朝倉喬司著「流行り唄の誕生」)

河内音頭の「河内十人斬り」は演者めいめいが独自に物語をアレンジして演じてきました。そのバリエーションは多岐にわたりますが次の点においてはほぼ共通しているようです。
・二人が本職の博徒として描かれている。
・松永一族も格をもった博徒の松永一家とされている。
・熊太郎は頼りなさそうな男である。
・弥五郎は私的な恨みから犯行に及んだのではなく兄弟の義に殉じて死んだ男とされている。


河内十人斬り十段
平岡正明著「浪曲的」に「河内十人斬り全段」という項があります。十の音頭(段)それぞれについて、平岡先生がさまざまなバリエーションの中からピックアップしたバージョンを独自の視点の解説を加えながら紹介しています。以下その要約です。

序段「河内あばれ獅子」(京山幸枝若)
十人斬りの一年前、旱魃に苦しめられている農民が田に引く水を求めて争っている。その喧嘩を仲裁した谷弥五郎は禁断の池の水門を開く。弥五郎は責任をひとりで引き受け官憲にひいてゆかれる。

二段目「火花散るだんじり囃子」(京山幸枝若)
建水分神社の祭礼では近隣十八カ村のだんじり(山車)が繰り出して大賑わいとなる。今年の山車の先陣は松永伝次郎の息のかかった中村と寄合が決めていたが、弥五郎はそれを無視して水分村の山車を先頭につっかけようとしたものだから、揉め事が起こって弥五郎は富田林の刑務所に入れられる羽目に。その後、弥五郎と松永一家とのイザコザがあって、次の年の祭礼がやってきた。

三段目(花沢義若)
ぬいは盆踊りに出かける。輪の中で踊っているぬいに若い衆がちょっかいを出すがおぬいは肘鉄をくらわす。これに逆上した男どもはおぬいをかついでさらう。おぬいの悲鳴をきいた松永虎次郎はかけつけておぬいを救う。そのまま二人は草むらでいい関係になってしまう。このことが噂となり、それを聞きつけた谷弥五郎が、兄貴分の熊太郎に、お前の女房のおぬいにへんな噂がたっていると告げる。

四段目「姦通発覚の段」(六代目岩井梅吉)
熊太郎が大阪に出かけて留守にしている。ぬいの母お梅婆あ(史実ではとら)は虎次郎を気に入っておぬいとの縁をとりもとうとする。虎次郎もその気になっておぬいの家に忍んびゆく。そこに弥五郎がやってきて板戸の破れ目から中をのぞくとおぬいと虎次郎の濡れ場。不義者を見つけたと弥五郎は座敷に上がりこもうとする。

五段目「谷弥五郎の韋駄天走り」(初音家太三郎)
おぬいと虎次郎の密会現場をおさえた弥五郎は、道頓堀にいる熊太郎に告げるべく河内の夜を走る。

六段目 城戸熊太郎が半殺しにされる話 (京山幸枝若)
盆踊りの夜、熊太郎は内縁の妻おぬいが虎次郎を密会しているのを見つけ、おぬいをどつく。そこへおぬいの母親のお角婆あ(史実ではとら)が割って入り、熊太郎がお角への養い料を滞納していることを罵る。悔しがる熊太郎は、その金を工面しようと、以前賭場で金を貸した松永熊次郎のもとへ行く。熊次郎は、その金なら返したと言って、松永方と内通していたおぬいが取り寄せた借金の証文を破る。さらに熊太郎を蹴飛ばし、敷居の根石に頭をぶつけた熊太郎は血まみれになる。悔し涙にくれてよろよろと帰る熊太郎は、堀川監獄から出てきたばかりの谷弥五郎と出くわす。弥五郎は、兄貴の傷が治ったら仇討ちを手伝うと約束する。

七段目「道頓堀弁天座での狼藉」(鉄砲光三郎)
熊太郎と弥五郎は道頓堀の弁天座で「吉原百人斬り」を観劇する。芝居の中で女に騙され金をとられ眉間まで割られた登場人物に同情するあまり、芝居と現実の見分けがつかなくなった弥五郎が二階の客席から花道めがけて飛び降りて、憎い役者を殴る蹴るする。

八段目「弥五郎、妹おやなとの別れ」(鉄砲光三郎)(京山幸枝若)
熊太郎の傷は癒え、武器の準備も整った。弥五郎は妹おやなを訪ね別れを告げる。

九段目 熊太郎、弥五郎、猿沢の落ち合い(三音会)
妹おやなとの別れをすませた弥五郎と、武器の調達を終えた熊太郎が、奈良の猿沢の池で落ち合う。二人は今生の名残に暴れ太鼓を打ち鳴らす。

終段 斬り込み金剛山の最後
十人斬りから金剛山での最後まで。二人の最後の場面は、京山幸枝若版では、覚悟を決めた熊太郎が差し出した首を弥五郎が斬り、弥五郎は村田銃の銃口を銜えて自決する。鉄砲光三郎版では、熊太郎が弥五郎を背後から撃ち、熊太郎は自分の喉元に銃口をあて足の親指を引き金を引いて自決する。

京山幸枝若の河内十人斬り

大衆演芸の歴史を生き抜いてきた「河内十人斬り」の現代における継承者の第一人者は浪曲師(そして河内音頭の唄い手でもある)二代目京山幸枝若師匠でしょう。
「河内十人斬り」は河内音頭だけでなく浪曲の演目にもなっています。
二代目の師匠であり父親の、亡くなった初代京山幸枝若の「河内十人斬り」のうち、大衆演劇のベースにもなっている、よく知られている部分のストーリーを浪曲や河内音頭の音源をもとにまとめました。

※幸枝若版の登場人物は史実と名前が変わっているところがあります。
とら→お角(かく)、虎吉→虎次郎

南河内富田林の松永親分の弟の虎次郎は、水分村の城戸熊太郎の女房おぬいと、ここ数ヶ月ちょいちょい逢引をしていて村の噂になっている。盆踊りの日も虎次郎はおぬいを連れ出して逢引していた。それを1ヶ月ぶりに村に帰ってきた熊太郎(熊太郎は仕事にでかけるといって家をでては博打場を遊びまわって何日も帰ってこないことが常である)が見つけ、熊太郎はおぬいをなぐってなじる。おぬいは、米を買う金がないので虎次郎に金を借りたが皆の前で返金の督促をされたので恥ずかしくてここにひっぱってきた、と咄嗟に嘘をつくが、熊太郎は許さず大喧嘩となる。そこにおぬいの悲鳴を聞きつけたおぬいの母のお角が現れる。この婆さんは銭が大好きな金の亡者である。お角は熊太郎に、嫁にやったといってもまだ籍はやってない、おぬいが間男したと腹立てるのなら日頃から亭主らしいことをしろ、となじる。熊太郎がおぬいを嫁にもらう際に、熊太郎からお角へ毎月二円五十銭の仕送りをするという約束があったが、熊太郎はそれを十ヶ月滞納している。お角は熊太郎に、亭主面をする前にたまっている二十五円を払えとまくしたて、おぬいには熊太郎と別れて虎次郎と一緒になれと言う。弱みをつかれ何も言えなくなった熊太郎を前に「ざまぁみくされこのド甲斐性なしめ。悔しかったら銭持ってきくされ、このガシンタレが」と毒づいて、お角はおぬいの手を引いて立ち去る。
二十五円の金があればお角婆あにたたきつけて、おぬいとも縁を切り、男の意地が立つのだけれど、と熊太郎は悔し涙を流す。熊太郎は下手な博打に明け暮れたあげく、家も屋敷も田んぼも畑も山も人手に渡してしまっていて金がない。金の算段を考えているうちに、思い出した。昨年の暮れに、博打場で虎次郎の兄の松永親分に五十円を貸していた。翌日熊太郎は貸した金を返してもらおうと松永親分のいる富田林へ向かった。

お角とおぬいは熊太郎が怖くて家に帰らず虎次郎の家に泊まっていた。虎次郎は熊太郎との間男の件をおさめてもらおうと、お角・おぬいを連れて兄の松永親分の屋敷へ相談に行く。お角からも松永親分へお願いしているところに、熊太郎がやってきて、松永親分は虎次郎・お角・おぬいを奥の部屋に隠す。熊太郎は松永親分に借金を返してほしいと証文を見せた。松永親分はその借金のことをすっかり忘れていたが、下手な言い訳は男が廃ると高飛車に出て、その金は八尾の博打場で返したはずだと出鱈目を言いながら凄み、証文を破り、利子をやるから持ってけと銀のキセルで殴って熊太郎の額を割った。さらに親分は熊太郎を蹴り倒し、熊太郎は後頭部を打って浴衣が血に染まった。熊太郎が反撃しようと手にかけたものは、見覚えのある下駄、熊太郎がおぬいに買ってやった下駄であった。おぬいがここにいるということは、おぬいの間男は松永親分までもが手を引いているのか、それを知らないのは自分だけだったのかと悔しがっているところに、虎次郎・お角・おぬいがでてきて、お角は殴られたおぬいの仇と熊太郎を蹴っ飛ばす。熊太郎は塩をまかれて屋敷の外につまみだされた。

村の半ばまで戻った熊太郎が柳の根元に倒れこみ痛さ悔しさに泣いているところに、監獄からでてきたばかりの谷弥五郎が河内音頭「石童丸」を歌いながらやってきた。弥五郎はひどい有様の熊太郎を見つけて訳をきいた。いきさつを聞いて弥五郎は、兄貴の仇は俺の仇と怒りをあらわにして、松永兄弟とお角とおぬいの息の根をとめてやると血気にはやるが、熊太郎はそれをなだめる。お前ひとりでやったら俺はどうなる、俺も男の意地を通したい、この傷を養生して元の体に戻ったら、命をかけてもあいつらと渡り合う。それを聞いて弥五郎は、生きるも死ぬも二人連れ、俺も命を捨ててやると、二人での仇討ちを約束する。弥五郎は熊太郎を医者に連れていった後も熊太郎を献身的に看護する。1週間後、熊太郎は監獄放免祝いとして弥五郎に金を遣る。弥五郎は奈良で女郎買いして博打して3日したら帰ってくると言って出て行った。入れ違いに巡査の木村が熊太郎の家に入ってくる。熊太郎が松永親分の家で傷をつけられ、弥五郎が「恨みの奴らを皆殺し」などと歌って村を歩いているという噂をきいて、熊太郎たちが短気な行動をおこさないかと心配してきたのだった。今の世の中では法律が仇をうってくれるからその気があれば診断書を持ってわしのところにこいという木村に対し、熊太郎はこの傷は盆踊りの日に転んでできたものだと嘘をつく。
何日たっても弥五郎が帰ってこない。もしや心変わりしたのかと疑っているところに弥五郎からの葉書が届いた。奈良の博打の帰りにつかまって、前科がたたって八ヶ月の懲役になった、俺が帰るまで決して一人で無理するな、借りは必ず二人で返そうという内容で、熊太郎はうれし泣きする。

たとえ一瞬でも弥五郎を疑ってしまったことが申し訳なく、逢って詫びがしたいと熊太郎は大阪の堀川監獄へ向かった。面会を断れられた帰り、熊太郎は道頓堀で芝居を観劇する。吉原百人斬りの主人公に同情して頭に血が上った熊太郎は「斬れよ斬れ佐野屋、おれも河内で斬る」などと声を荒げ他の客に注意される。熊太郎は村田銃を二丁買い、その後宇治で自分の菩提を弔い経帷子を求め、奈良を見物しがてら刀を二振り買って帰った

明治二十六年春、弥五郎が監獄から帰ってきた。熊太郎と弥五郎は決行の日を決める。親兄弟がいない熊太郎は弥五郎には唯一の身内である妹のおやながいることを気にかける。
弥五郎は妹の奉公先に行っておやなに会う。おやなはまた博打に負けて金を借りにきたのかと思ったが、弥五郎は別れを言いにきたと言う。弥五郎は九州へ石炭を掘りに行くと嘘をつくが、おやなは、そんな危ないところに行かないで、兄やんにもしものことがあったらわてはどうしたらいいのか、お金ならみんなあげる、といじらしいことを言う。弥五郎は後ろ髪を引かれる思いでおやなと別れる。

日は暮れて、暗闇に雨が降っている。熊太郎と弥五郎は茶屋の奥座敷で別れの盃を酌み交わす。南無阿弥陀仏の経帷子に刀と村田銃を携えて、二人は雨夜の闇へ。

お角の家に入りこみ、納戸で寝ていたお角を熊太郎が斬る。次の間にいたおぬいも斬って家に火をつける。
松永宅へ斬りこみ、松永親分ら十人を仕留めたが、肝心の虎次郎がいない。虎次郎を殺さなければ死に切れない、一時姿を隠そうと、二人は金剛山へ逃げ隠れた。

翌日、村は黒い噂で持ちきりで、犯人は金剛山へ隠れたようだと、近隣の警察や消防が出動して金剛山をとりまいた。食料がなくなって山から出てくるに違いないと待ち構えていたが何日たっても二人はあらわれない。
松永一家がやられたことに、厄払いができたと喜んだ村人がいて熊太郎と弥五郎にこっそり食料を届けていた。これに感づいた警察は村人の金剛山への立ち入りを一切禁じた。
熊太郎と弥五郎が食料を断たれて三日目、山狩りが始まった。弥五郎は一人二人斬ってでも逃げ延びようと言うが熊太郎はそれを制する。何の恨みもない、まして恵みを受けた村人に手を出してはいけない。しかし逃げることもできず、縄目の恥を受けなくてはならないのであれば、覚悟は決まっている。熊太郎は、最後の頼みだこれでひと思いにやってくれと刀を弥五郎に渡す。弥五郎は熊太郎を刺し殺すと、村田銃の銃口を自分に向けて引鉄をひいた。

最後に、「~男持つなら熊太郎、弥五郎~」という文句のある節を謳い上げ河内音頭・浪曲は終わります。

錦糸町河内音頭
現代において普通に生活していて河内音頭に接することはほぼないでしょう。どのように河内十人斬りの口演を楽しめばよいでしょうか。

YouYubeで「河内十人斬り」で検索すると、河内音頭や浪曲のネタがでてきます。京山幸枝若(初代・二代目)のほか、鉄砲光三郎の鉄砲節河内十人斬りもとても味わいがあります。
Amazonで検索すれば中古CDが見つかります。

関東で河内音頭にライブで触れることのできる最大のイベントは2005年から続いている「錦糸町河内音頭」です。
2015年の錦糸町河内音頭はは8月26日(水)、27日(木)の2日間行われました。
「河内十人斬り」は初日に京山幸枝司師匠が掛けました。

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2015年8月錦糸町河内音頭 アンコール時の京山幸枝若師匠。後ろには京山小圓嬢と三原佐知子師匠。(chaconne0430さん撮影)


大衆演劇
大衆演劇でも昔から多くの劇団が「河内十人斬り」をかけてきたそうです。
劇団炎舞の「河内十人斬り」
2016年6月12日、浅草木馬館で劇団炎舞の「河内十人斬り」を観ました。同月、ファンクラブのtwitterに「(河内十人斬りは)ボスが一番最初に大衆演劇界で、芝居として書き上げました」とありました。ボス・橘魅乃瑠が劇団のお家芸として大切に育ててきた演目なのでしょう。
主な配役・・・谷弥五郎:橘炎鷹、城戸熊太郎:沢田ひろし(ゲスト)、松永虎次郎:橘光鷹、松永伝次郎:橘ひろと、おかく:橘魅乃瑠、ぬい:渋谷めぐみ(外部客演)、やな:橘麗花、愛媛県:橘ひろと(二役)、飴虎:橘魅乃瑠(二役)、警察の頭:北条嵐(ゲスト)、松永一家の身内:橘鷹勝・橘鷹志・橘美炎・橘もん太・橘炎子

ストーリー・構成は上述した京山幸枝若のものとだいたい同じです。
ラストシーンに大衆演劇らしい脚色がされています。
山狩りが始まり、追い詰められた二人。熊太郎は弥五郎に自首しようと言うが、弥五郎は、それでいいのか兄キ、まだ虎次郎をやっていない、これでは死に切れないだろうと熊太郎が抑えている思いを代弁する。その言葉に感謝した熊太郎だが、追手から逃れるために山狩りに参加している村人を傷つけるのは本望ではなく、覚悟を決めると、弥五郎を背後から刀で刺す。弥五郎も熊太郎の思いを悟り兄キのことは恨まんと言う。あの世でも兄弟分でいようと誓い合い、熊太郎は銃で自害する。
炎舞版河内十人斬りで強調されているのは「義兄弟の美学」です。
義兄弟の契りというのは当初は「契約的」なもののはずです。それが、お互いの心が触れ合ってゆくうちに「心情的」なものに変わってゆく。さらに絶望的な状況で身体が極まると、心情的な距離はどんどん近づいてゆき、ついには「同一化」してしまう。この状態こそが自分の命よりも重い意義があると自覚するようになる。
この義兄弟の契りの結晶化こそ炎鷹版河内十人斬りクライマックスの見どころでした。
あきらめようという熊太郎に、個人的恨みをもっていないはずの弟分の弥五郎は完全に熊太郎の本心を我が思いとし、自分の命をかけて恨みを晴らそうとする。最後は二人とも「恨みを果たすこと」よりも「あの世にいっても義兄弟としてかたく結ばれること」の方が自分たちにとって大事なことだと認め合う。そうなることを確信できた二人はその喜びをかみしめる時間がほしかったに違いない。熊太郎は突然弥五郎に「石童丸」を唄ってくれと頼み、弥五郎は残された力を振り絞って唄う。弥五郎が唄い終わると熊太郎は自分に向けて銃を撃つ。
おそらく、このような義兄弟の美学の表現は昔からの大衆演劇の芝居の本領だったのではないでしょうか。旅役者が演じてきた人物は、博徒のように世間から隔絶された立場の者が多かったでしょう。そのような人物に力強い生の息吹を与えることに旅役者は生きがいを感じ、そのための美学を大切にしてきたのではないかと想像します。
そんな私の憶測を証明するかのように橘炎鷹座長はこの芝居で見事な演技を見せました。また、炎鷹座長がこの芝居をやるなら相手は絶対この人と切望した、熊太郎役の沢田ひろしの演技も素晴らしかった。
これが自分の生き方だと決めたからには、自らを損ねることになっても信念を曲げない。その信念によって「義」が磨かれてゆくほど、「義」以外のものに対する生きるべき価値が薄くなってゆく。
そんな男の生き様は、「大衆演劇役者」が心身とも染み付いた二人は感覚的に諒解しているでしょう。だからたった1日限りの芝居でほとんど稽古ができなくても、本番の舞台では二人は阿吽の呼吸で義兄弟の美学を紡ぎたすことができる。大衆演劇役者の本領を堪能できた芝居でした。
炎鷹版のもうひとつの見どころは、十人斬りの場面での大量の血のり演出です。熊太郎が松永一家の子分の腹を刺す。子分の着物が血に染まる。そして子分は口から血を吐いて倒れる。このような調子で、やられる子分が皆、刺された所から血を流し口から血を吐く、の出血2点セットで役者の衣服、床はおびただしい血で染まります。こんなに血のりをたくさん使った芝居をはじめて観ました。血が嫌いなお客さんがいるから(私もそうですが)血のりはあまり使いたくないという劇団もあります。でもこの芝居のように、復讐の場というシチュエーションの盛り上がりを目的としていて殺陣自体にリアリティを追求していない場合は、血は単に「恨みの象徴」として映るので見ていて気持ち悪いものではありません(あくまで 私の感想ですが)。とにかく大量の血のりを使った凄惨たる恨みの現場は見ごたえがあるシーンでした。
炎舞版河内十人斬りは男である私としては大いに感じ入るところがありましたが、若い女性のお客さんにとってはどうだったのでしょうか。
おそらく最近の、というかこれからの大衆演劇において多くのお客さんに求められるのは「ストーリーに納得できて登場人物に感情移入し感動できる」芝居になってゆく気がします。テレビで紹介されている大衆演劇像も、どんな世代の人でも泣いて笑って楽しめる、というものです。確かに大衆演劇の喜劇の大半はそういうものです。
一方、今の世の中では時代錯誤だと思われている、しかしまったく無視してよいとは誰もが思っていないだろう、「忠」や「義」や「意地」といったテーマを大真面目に扱うことで、お客さんの普段触れない琴線を揺さぶり非日常的で理解しがたいながらも肯定したいと思える幻想を立ち上がらせることにも、大衆演劇らしさがあると私は考えています。
つまり大衆演劇「らしさ」を芝居の内容面から捉えた場合、私の思う「らしさ」には相反する二つのものが共存します。
今は前者を目指す傾向が強く(その典型的なあらわれが松竹新喜劇の芝居の増加でしょう)後者のような芝居が少なくなってきたように思います。
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけてのむ」・・・北島三郎「兄弟仁義」は今から約50年前の日本でミリオンセラーとなりました。多くの日本人が義兄弟という幻想に心を寄せていたのです。
炎鷹座長が炎舞版「河内十人斬り」をこの先ずっとお家芸としてかけ続けて行くことを強く願っています。
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2016年6月12日劇団炎舞浅草木馬館公演「河内十人斬り」カーテンコール

たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
たつみ座長が中学生の頃までは劇団でやっていたそうです(たつみ座長の父親二代目小泉のぼるが弥五郎役)。永らくこの芝居を舞台にかけていなかったのが、2015年3月の三吉演芸場での小泉ダイヤ誕生日公演で復活しました。私はその誕生日公演と2016年8月の木馬館公演を観ました。
主な配役・・・谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男(2016大蔵祥)、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:葉山京香、やな:辰巳満月、愛媛県:辰巳小龍(二役)、鹿蔵・飴寅::嵐山瞳太郎(二役)、松永一家の身内:大蔵祥・小泉ライト・辰巳花
小泉版「河内十人斬り」は辰巳小龍演じるおかく婆あが絶品です。河内十人斬りの前半の影の主役はコメディリリーフも担うおかく婆あではないでしょうか。
体型は細身で腰の曲がった弱弱しそうなばあさんだが、その性格のどぎついこと。何より機関銃のように罵詈雑言をまくしたてる勢いが凄い。捨て台詞「このド甲斐性なしのガシンタレが」も最高。
小泉版の構成の工夫のひとつは、オープニングで幕が上がると、紋付袴姿のダイヤ座長が現れて河内音頭を唄いだすところです。この演出はうれしい。思わず「エンヤコラセードッコイセ」と合いの手を入れたくなります。
十人斬りの場面は、父親の芝居では大量の血のりを使ったそうですが、たつみ版は「血が嫌いなお客さんもいるから」と血は使いませんでした。
金剛山に逃げ隠れている際に、少ない食料をお互い譲り合う場面を入れるなど、兄弟の情を強調した脚色となっていました。
最後は一緒に死のうとお互い差し違えますが、弥五郎の情愛が強調された演出だと思いました。
芝居全体の完成度は、言うまでもなく、さすがたつみ演劇BOXとうならせる高さでした。

炎鷹版もたつみ版も、金剛山で熊太郎らにこっそり食料を差し入れる愛媛県と呼ばれる村人と彼が面倒を見ている飴虎という青年と、やつらを見かけたらこれを吹けと笛を渡す役人が出てきて、他愛もない喜劇的場面が挿入されます。
「愛媛県」という名前の由来は何なのだろう?気になります。

小説 町田康「告白」
町田康先生の「告白」は河内十人斬りを題材とした長編小説です。史実および芸能の演目としての河内十人斬り(町田先生は浪曲がお好きです)どちらも内容に反映されています。
とにかく面白いです。心地よいです。すべてのページに天才町田先生の言葉のイリュージョンが散らばっています。人間描写のおかしさがたまらない。

主人公は城戸熊太郎で、熊太郎の少年時代から最後までを以下のような時間経過で描いています。(ネタばれ注意:小説の内容に少し言及しています)
・慶應3年(熊太郎10歳)
世の中には基準が複数あることを知り、大人が発する言葉に疑問を抱く。
・明治4~5年(熊太郎14~15歳)
葛城山の岩室で人を殺めてしまう。このことは熊太郎しか知らないが、以降このことが熊太郎の脳裏に暗い陰を落とす。
・明治14年(熊太郎24歳)
熊太郎は酒・博打と遊蕩に身を持ち崩す。賭場で少年谷弥五郎と出会う。村会議員松永伝次郎の息子松永熊次郎と出会う。村の女に惚れるが失恋する。
・明治24年(熊太郎34歳)
弥五郎と再会する。奈良の遊郭で寅吉に会い、つるむようになる。美しく成長した17歳のぬいに村中の若者が夢中になり熊太郎も惚れる。弥五郎の協力で熊太郎とぬいはよい仲になる。
・明治25年(熊太郎35歳)
とらが金を目当てに、ぬいを松永熊次郎に添わせようとするが、熊太郎は金で解決し、熊太郎とぬいは所帯を持つ。熊次郎は熊太郎に30円を借りる。寅吉とぬいの仲がよくなる。熊太郎、とらに養い料を請求される。熊太郎は熊次郎から金を返してもらおうとするが、熊次郎の計略に遭い受け取れない。熊太郎、伝次郎宅に行くがふくろだたきに遭う。
・明治26年(熊太郎36歳)
3月、熊太郎の傷が治る。弥五郎は浅井てると所帯をもとうとするが父親の浅井伝三郎に反対され、手切れ金100円を要求する。
5月、十人斬りの決行。金剛山中に逃げる。二人の最後。

河内音頭や浪曲で主に語られるストーリーに相当するのは小説の最後の1/4か1/5くらいです。この小説の大部分はそこに至るまでの熊太郎の遍歴が描かれています。といっても、史実に明らかにされていない部分をこうだったのではないかと史実補足する目的で書かれているのではなく、町田先生の妄想の翼が自由闊達にかけめぐるフィクションとして創作されています。
この小説の主人公熊太郎はあまりに思弁的なため、自分の感情を直接的に感じてそれを言動にダイレクトに反映させることができない。自らを説明するように客観視している自分が常に同居していて、その思考が渦巻く結果、自分の本音を見失っている。また、本音や直感に対して素直に生きているらしい周りの人々の思惑を慮ることができない。自分に素直に(悪事も含めて)生きている周りの人間の言動と熊太郎の言動とはことごとくフィットしない。その様子を、イキイキとした河内弁の台詞回しと飄逸な心情吐露を用いて描いている。これがこの小説の最大の魅力だと思います。だから河内十人斬りを描いた小説というより、思弁的すぎて思うように世間と渡り合えない男を描いた小説と言った方がよいでしょう。小説の最後の1/5は史実および河内音頭の河内十人斬りをなぞるような内容になっていて、それまでのユーモラスさはあまりありません。けれども、河内十人斬りに興味がある者にとっては、実に楽しめる内容になっています。

物語の舞台を訪ねて
小説「告白」には事件があった水分村界隈のさまざまな場所が描かれています。
2015年夏、物語の舞台を訪ねました。
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大阪唯一の村、千早赤阪村の水分に来ました。

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建水分(たけみまくり)神社境内。建水分神社は地元では通称水分(すいぶん)神社として親しまれています。
正面奥に建水分神社拝殿、右の鳥居は南木(なぎ)神社。

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建水分神社摂社の南木神社。楠木正成を祀ったお社です。
熊太郎が白く輝く正三角形が浮遊するのを見たのはこの鳥居の前の空中です。

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建水分神社の拝殿はこの階段の上。

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拝殿下の階段付近から見た境内。
前方右側にあるのが旧絵馬堂。熊太郎が森の子鬼と角力をとったのはこの前あたりだろうか。

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小説にたまにでてくる「牛滝堂」という場所に行ってみようと思いましたが、Googleマップでは表示されているものの、現場ではいったいどこなのかがわかりませんでした。

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小説にはでてきませんが建水分神社近くにある奉献塔も訪ねました。
楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に建てられた記念塔です。

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奉献塔の近くから金剛山方面を眺める。

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熊太郎が森の子鬼を探しにいった御所(ごせ)方面へ向かいます。
進行方向に金剛山の山並みが見えます。

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奈良県御所市に入りました。
熊太郎も訪れた一言主(ひとことぬし)神社の参道です。願いごとを一言だけきいてくれる神様を祀っています。
小説では、ちょっと迷っている人の前に突然現れて一言言い放って去ってゆくという不気味な神様(笑)になってます。

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地元の方には「いちごんさん」として親しまれています。

一言主神社は葛城山の麓近くにあります。

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葛城岩橋図
葛城山には巨岩・奇岩があります。図には「胎内めぐり」として大きな岩の間から抜け出そうとしている人が描かれています。
葛城ドールの岩室も葛城山中のどこかにあったのでしょう。

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一言主神社から少し離れた道路に「蛇穴」という地名表示が見えました。「さらぎ」と読みます。
岩室の帰りに、大小数百以上の蛇が生きてぬるぬるおごめいている蛇穴に鹿造が落ちて発狂した場面を思い出します。
珍しい土地の名だなと思って地名事典で「蛇穴」を調べたら「例祭に蛇綱引汁掛祭が行われる。大蛇をかたどった蛇綱を造り境内に奉納、参拝する人々にワカメの味噌汁をかけた」と書いてありました。なんちゅう奇祭でしょうか。

小説の舞台を訪ねる旅は以上です。

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御所にある大衆演劇場「御所羅い舞座」で観劇して別の旅先へと向かいました。

■あとがき
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・京山幸枝若(初代、二代目)
・町田康
・小泉たつみ、小泉ダイヤ、辰巳小龍(たつみ演劇BOX)
私が大好きなそして尊敬している先生方です。先生方の豊かな表現を堪能すると、日本に生まれてきてよかったなあ、もう少し言えば、日本語を母国語とする国に生まれてきてよかったなあとわが身の幸運を祝福したくなります。
この先生方が皆同じ題材「河内十人斬り」を扱っているということで興味が募り、いろいろ調べたのを機に、このブログを作成いたしました。
「河内十人斬り」がもっと演芸ファンの人気を集め、浪曲でも大衆演劇でも多くかけられるようになればいいなあと願っております。

(2016年8月投稿)
プロフィール

Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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